2016年7月9日土曜日

哲学的な文とは命題的な文のことである


提唱者:アリストテレス、アンモニオス、イブン・シーナー

テキスト:『命題論』『命題論註解』『治癒の書』「命題論」

哲学的な文ってなんだろう?

とっても難しい気がする。

たぶん倫理の教科書とかでは、「すべての根源(アルケー)は水である」とか、そんな文章を読んだことがあるかもしれない。

でも、アリストテレスによれば、哲学的な文とそうでない文の違いは明確だ。

アリストテレスは『命題論』第4章で以下のように言う。

言表はすべて対象を表示するものだが、道具のようにではなく、すでに述べられたように、取り決めによって表示するものである。またすべての言表が命題的であるわけではなく、真または偽である言表が命題的である。例えば祈りの言葉は言表であるが、真でも偽でもないように、すべての言表が真であったり偽であったりするわけではない。しかしこういった他の種類の言表は考察対象から除外することにしよう。そうした言表の考察は現在の研究よりも弁論や詩作の研究で行われるものなのだから。そして命題的言表が現在の考察対象である。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, p. 118–119.

つまり、アリストテレスによれば、命題的で、真か偽か決定できるものだけが、『命題論』での考察の対象なのである。

それ以外のものは、たとえば『詩学』や『弁論術』で取り扱うべきだという。まぁアリストテレスの言いたいことは分かる。たしかに『命題論』で扱うのは(ギリシア語の原題だと『解釈について』だけど)、命題的な文章で、詩的な文章や修辞的な文章はほかのところで取り扱うんだよ、というのはとても理に適っている。

でも、これがアリストテレスの註釈家の時代になっていくともう少し細かく分析されるようになる。五世紀頃の註釈家アンモニオス・ヘルメイウは『命題論註解』の冒頭でこのように言っている。

文章には五つの種類がある。つまり(1)呼びかけ文、たとえば「ああ幸せなる者アトレウスの息子よ」のような。(2)命令文、たとえば「行け!疾く離れよイリス!」のような。(3)疑問文、たとえば「お前は誰でどこから来たのだ?」のような。(4)祈願文、たとえば「ああせめて、父なるゼウスよ…」のような。そして最後に(5)断言文で、これによって我々はあらゆるものに対する断言をおこなうのである。たとえば「しかし神はすべてを知っているのだ」、「あらゆる魂は不死である」など。アリストテレスはこの講座において、すべての単純な文でなく、断言文のみにかんする教授をおこなっている――それには理由がある。というのもこのタイプの文章のみが真偽を受け入れるのであり、哲学者(=アリストテレス)は論証のために論理学の講座全体を編んだのであり、それはこのタイプに分類されるのだから。
Ammonius, On Aristotle's On Interpretation 1–8, trans. David Blank, Ithaca, New York: Cornell University Press, 1996, p. 12.

アリストテレスによると真でも偽でもない言表があるよね、それは命題的ではないから論理学では扱わないよ、という程度だったものを、アンモニオスは文をぜんぶで五種類に分類する。
そして、呼びかけ、命令、疑問、祈願といったものは哲学では取り扱わないと宣言する。(ここで引っ張ってきている例文がホメロスからなのが、いちいち後期古代の教養を見せつけている)

命題的な(真か偽である)文のみを取り扱うのが論理学だけなのか、それとも哲学全体なのかという問題はあるだろうけど(アラビア語に翻訳される段階で『弁論術』と『詩学』は論理学(オルガノン)に含まれてしまうのでまた面倒な話になるんだけど)、アンモニオスのニュアンスでは「哲学的な文章=命題的な文章」と理解しても問題ないんじゃないかなぁ。

そしてもっと時代がくだってイブン・シーナーになるとどうなるかと言うと、彼は『治癒の書』「命題論」で、次のようなことを言っている。(ちょっと長いけど)

言説は、その一部がほかの一部を制限することによって、定義や描写のやり方で組み合わせられうる。また言説の諸部分のあいだに「~なもの」という発話が述べられるのは妥当である。たとえば「理性的で定命の動物」という文のように。というのも、それが「理性的なものであり、定命のものである動物」と言われるのは妥当なのだから。
 またべつの仕方でも組み合わされうる。というのも言説に必要なのは、魂のうちにあるものへの指示であり、指示は、それ自体によって意図されるか、会話内容によってそれに由来するものが生じると予測されるほかのものによって意図されるかである。
(1)それ自体によって意図される指示は述語で、本来的に指示されたものか、祈願や驚嘆などの転化のような、屈折されたものかである。なぜならそれらはすべて述語に還元されるのだから。
(2)会話内容から見出されるものによって意図されるものは、それも指示であるか、指示でなく活動であるかである。もし指示が意図されたなら、会話は調査や質問である。そして指示以外の何らかの行為や活動が意図されたとき、同等からのものは依頼、上からのものは命令や禁止、下からのものは嘆願や請求と言われる。
しかし学問において有益なのは、制限という仕方での組み合わせか(それは定義や描写やそれに類したものによる概念化の獲得にかかわる)、または述語にしたがった組み合わせ(それは推論やそれに類したものによる承認の獲得にかかわる)のどちらかである。そしてこのような仕方の組み合わせから、断言的と呼ばれる種類の言説が生じるのである。
断言的言説はすべてが真か偽であると言われる。そしてほかのいかなる[種類の]言説も、真か偽かと言われないように、断言的だと言われない。よって、それらにかんする考察は、弁論術や詩の規則にかんする考察により相応しい。
Ibn Sīnā, Kitāb al-Shifā’: al-ʻIbārah, ed. M. El-Khodeiri, S. Zāyid et al. Cairo: Dār al-Kātib al-ʻArabī, 1970, p. 31–32.

イブン・シーナーはアンモニオスほど細かく文章の種類を分類していないけど、ちょっと面白いのは、文の種類のなかには「行為を誘発するような文」があると指摘していることだ。でもやっぱり哲学的な文章というのは命題的な文章ということになる。(彼はそれを概念化と承認という二種類に分類する)
イブン・シーナーがちょろっと紹介している、この「行為を誘発するような文」は、いわゆる現代の言語行為論につながっていくものなのだろうけど、彼はそこをちょっと紹介しただけで素通りしてしまう。
やっぱりアリストテレス的な「真か偽である文」という規定がとっても強く支配していたことが分かる。
(言語行為論がオースティンなどに至るまで存在していなかったかというと、古代の教父たちが祈りにかんする考察をしているという主張もあるけれど、個人的にそれほど詳しくないし、彼らの考察が「哲学」かというとちょっと疑問もあるので、ここでは深く立ち入らない。)

おそらく、より文学的な傾向や神秘主義的な傾向をもった哲学や思想は、このアリストテレス的な「真か偽か判断できる命題的な文のみを哲学で取り扱う」という、割と限定的な規定を嫌い、いわばそれを「乗り越え」ていこうとするんだろうけど、たぶんそういった人たちの思想も、究極的な首長が「乗り越え」ているだけで、そこに至るまでの道筋は命題的だと思う。
もしそうじゃなければ、それは神秘哲学じゃなくて神秘主義ってことになるんじゃないかな。イブン・シーナーの、論理を安易に否定する「神秘野郎」への拒否感は、おそらくペリパトス派の典型的な考え方なんじゃないかと思う。

現代の哲学に慣れ親しんだ人からすると、この規定はいかにも窮屈に感じるかもしれないし、哲学の原初の姿勢は命題以前の驚きの叫びなのだという意見もあるだろうけれど、真とも偽とも言えないものを排除しようという姿勢は、改めてアリストテレスが「学問の祖」であることを思い出させてくれる。

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