2016年7月11日月曜日

「すべての始原は水である」と「水!」


提唱者:タレス、アリストテレス、イブン・シーナー、井上忠

テキスト:『形而上学』、『治癒の書』「入門篇」、『根拠よりの挑戦』

日本を代表する哲学者のひとり(?)、井上忠、通称イノチュウは独特の言語感覚をもっており、彼の著作はどれもが「読むドラッグ」とでも言うような酩酊感を引き起こすものだけれど、初期の代表作『根拠よりの挑戦』の冒頭の論考において、彼は以下のように言っている。

こうした空寂の裡に、突然、
「タレス、このかような意味での哲学(ピロソピア)の創始者(アルケゴス)は、水だ、と言う」
との宣言が炸裂する。この言葉が、ただこの一句が、アリストテレス全著作、ひいては全西洋哲学史を貫いて、哲学の開落を告げている。それはあたかも、タレスの水の叫びが、体系めく理論の姿も、説明も纏わず、ただ一つの言葉として、アリストテレスの愛智探求の途に突如響交いわたった驚異の瞬間を、まざまざと示す如く、一瞬のうちにタレスの不動の位置を決定したものである。(……)
万有の始原・原理は何か、との問いがまずあったのであろうか。万有の原理という、この思想が、「水!」以前にあったのであろうか。アリストテレスの筆の運びは明らかに、「万有の存するはそれからであり、すべてがそれから生じ来る第一なるものであり、また終にはそれへと消滅しゆく窮極なるそれ(そこではそれが本当に有ることの所以〔その実体〕は、そのままそれらすべての基(もと)に〔基体として〕とどまっていて、ただそれの受ける様々な様態(パトス)においてのみその転化すなわちその生滅変化が現れる)、こうしたそれを、ひとびとはものの構成要素(ストイケイオン)であり始原(原理)(アルケ)であると言う」と述べたあとを承けて、このそれが水なのだという解釈を示している。勿論これは「講義」のための手法であり、かれ自身の体系構成の方法からの説明である。(……)
実に、タレスの「水!」の発語は、かれの筆持つことへの怠惰の故でも、文献の不足や伝承の疎漏の故にでもなく、初めてあれに、万有の蔭に完全犯罪を遂行して止まぬあいつに、人間が突然出遭ったときの、驚畏と緊張の異様な沈黙のさ中に発せられた一語であったが故に、かく厳しく孤立するのである。
井上忠「プラトンへの挑戦――質料論序論――」『根拠よりの挑戦 ギリシア哲学究攻』東京大学出版会、1974, p. 11–16.
(原文のルビは丸括弧にて指示、傍点は太字とした)

何とも不思議な文章だけれども、これはアリストテレス『形而上学』の記述を下敷きにしている。

しかし、こうした原理(アルケー)の数や種類に関しては、必ずしもかれらのすべてが同じことを言っているわけではなくて、タレスは、あの知恵の愛求〔哲学〕の始祖であるが、「水」(ヒードル)がそれであると言っている、(それゆえに大地も水のうえにあると唱えた、)そしてかれがこの見解をいだくに至ったのは、おそらく、すべてのものの養分が水気のあるものであり、熱そのものさえもこれから生じまたこれによって生存しているのを見てであろう、しかるに、すべてのものがそれから生成するところのそれこそは、すべてのものの原理(アルケー)〔始まり・もと〕だから、というのであろう。たしかにこうした理由でこの見解をいだくに至ったのであろうが、さらにまた、すべてのものの種子は水気のある自然性(フィシス)をもち、そして水こそは水気のあるものにとってその自然の原理であるという理由からでもあろう。
アリストテレス『形而上学 上』(出隆訳)岩波文庫、1959, p. 32–33.
(原文のルビは丸括弧にて指示、傍点は太字とした)

ここでアリストテレスは、原理=始原(アルケー)がどうなっているかについて過去の学説を紹介し、それをひとつずつ検討してゆく。そしてタレスはそれが「水」であると言ったとしている。

たしかにここから「すべての始原は水である」という命題を読み取るのは簡単だし、アリストテレスの文章がそうした命題的な文章への傾向性をもつことは確かだと思う。

でも、そこにイノチュウは待ったをかける。ここでタレスが言ったのは、

「水!」

の叫びじゃないといけない。

「すべての始原は水である」みたいに間延びした命題じゃあない。
哲学のはじまりが「驚き」なのであれば、まさにイノチュウの指摘は、哲学の始まりが何であるかについての厳しい洞察であると言えるんじゃないだろうか。

ここで私はイブン・シーナーによる「概念化」と「承認」という二つの考えに行きあたる。

彼は『治癒の書』「入門篇」第1巻第3章で以下のように言っている:

また事物はふたつの面から知られる:
ひとつ目は、概念化される(=思い浮かべられる)だけであり、それが名前を持っていて発話されたとき、精神のうちにその意味を、真も偽もなしに思い浮かべた場合。たとえば「人間」と言われたり、「私はこのようなことを行う」と言われたり。なぜならあなたは、それによって話されていることの意味を理解したら、それを概念化する(=思い浮かべる)だろうから。
ふたつ目は、概念化と共に承認が生じる場合である。たとえば「あらゆる白さは付帯性である」と言われたとき、これによってあなたに、この言説の意味の概念化が生じるだけでなく、あなたはそれがそうであると承認する。それがそうであるかそうでないかを疑っていても、あなたは言われたことをすでに概念化している。というのもあなたは、あなたが概念化していなかったり理解していなかったりするものを疑っているのではなく、それをまだ承認していないだけなのだから。あらゆる承認は概念化と共にあるが、逆は成り立たない。
Ibn Sīnā, Kitāb al-Shifā’: al-Madkhal, ed. A. Qanawātī, M. Al-Khuḍairī, F. Al-Ahwānī, Cairo: al-Idārah al-ʻāmmah li-l-taqāfah, 1952, p. 18

彼によれば、「人間」とだけ言われるのは概念化であり、「人間は理性的動物である」と言われるのが承認である。
概念化の場合、ただその概念が頭に思い浮かんでいるだけであり、それについて真も偽もまだ言われない。
それが分節化されて、文章になってはじめて論理学的な命題になるのだ。

これはまさに、「水!」という叫びから「すべての始原は水である」への分節化に対応していないだろうか。

もちろんこの概念化は真偽が定かでないのだから、命題的な文章こそを哲学的探求の題材にするペリパトス派的な視点からすると、「哲学以前」の叫びに過ぎないかもしれない。

しかし、承認可能な命題も、かならず概念化されたものから構築されなければならない。

そういった意味では、「水!」の叫びこそが哲学の始まりなのだというイノチュウの指摘と、哲学的命題以前に真偽の定まらない概念化の段階があるとしたイブン・シーナーの主張は、結構似ているのでないかとも思ったりするのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿