2016年6月9日木曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第二部第一巻(1)

第二部



神的な諸光と諸光の光、存在の諸原理、それらの序列

全五巻


第一巻
光とその実相、諸光の光、そこから第一に発出するもの

諸章と諸規則が含まれる


第一章
〈光は意義付けを必要としない〉

(107)もし意義付けと説明を必要としない存在があるならば、それは顕在しているものである。そして光より顕在しているものはなく、光以上に充足しており意義付け不要なものはない。

第二章
〈充足したものの意義付け〉

(108)充足したものの本質や完全性は他者に依存していない。そして不足したものの本質や完全性は他者に依存している。

第三章
〈光と闇〉

(109)事物は、自らの実相において光や閃光であるものと、自らの実相において光や閃光でないものに分類される。
ここで光や閃光で言わんとしているものはひとつである。というのも、私はそれによって比喩的なものに数えられるものを意味していないのだから(たとえば「光」で「知性にとって妥当なもの」が意味されるようには。もっとも、それ(=光の比喩表現)も煎じ詰めればこの「光」から派生しているのだが)。
また光は、他者の様態(hay’ah)(つまり付帯的な光)と、他者の様態ではない光(つまり抽象的光、純粋な光)に分類される。
自らの実相において光でないものは、基体を必要としないもの(つまり薄暮の実体(al-jawhar al-ghāsiq))と、他者の様態(つまり闇の様態(al-hay’ah al-ẓalmāniyyah))に分類される。
障壁(al-barzakh)は物体であり、それは指示(al-ishārah)によって志向される実体として描写される。ある種の障壁は、そこから光が消え去ったとき、昏く在り続けると見做されている。「闇(al-ẓalmah)」は「光の欠如」を言い換えただけではない。これは可能性が条件付けられた欠如でない。なぜなら、もし世界が「虚空」や「無光の天球」であると仮定したなら、それは昏いことになり、光が[そこに生じる]可能性がなくても闇が減少することが伴っただろう。よって光や光的でないものはすべて、昏いことが確定した。
障壁から光が消え去っても、その障壁が昏くあるために他者を必要としない。よってこういった障壁は薄暮の実体なのである。また太陽などのように、そこから光が消え去ることのない障壁も残っている。これらはそこから閃光が消え去るものと、障壁性にかんして共通しているが、[太陽の]閃光が永続するという点で異なっている。つまりこれらの障壁をほかと隔てている光は、障壁性に附随しており、障壁性によって存立しているのだ。よってそれは付帯的な光であり、それを纏うものは薄暮の実体である。よって障壁はすべて薄暮の実体である。
(110)感覚される付帯的な光は、自己充足していない。そうでなければ、薄暮のものを必要としなかっただろう。[しかし感覚される付帯的な光は]それ(=薄暮のもの)によって存立するのだから、不足しており[他者を必要とし]可能的である。しかしその存在は薄暮の実体に由来しない。そうでなければ、それは薄暮の実体に附随し、それと共にあり続けただろう。しかしそうではない。自らよりも高貴なものを必然化する事物などありうるだろうか?よって、すべての薄暮の実体にそれらの光を与えるものは、それらの昏い「何であるか性」や闇の様態ではない。あなたは、闇の様態の多くが光の結果であることを知るだろう(その光自体が付帯的であったとしも)。[闇の様態は]隠されているのだ。いかにして、[より隠れているものが、]より隠れていないものや同等なものを必然化するのか?よって障壁に光を与えるものは、障壁でも薄暮の実体でもありえない。そうでなければ、すべてに当てはまるこの規則(=より顕在しているものがより隠れたものを顕らかにする)に抵触してしまう。よって障壁に光を与えるものは、障壁でも薄暮の実体でもないのである。

(2)



*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。


あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

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