2016年6月30日木曜日

スフラワルディーの光の存在論

提唱者:スフラワルディー


 スフラワルディーによれば、この世のあらゆるものは光と闇で構成されているという。

 彼によれば、存在は次のような階梯をもつ。

 ・抽象的光、純粋な光

 ・他者の様態としての光、付帯的な光

 ・基体を必要としない闇、薄暮の実体

 ・他者の様態としての闇、付帯的な闇

 もちろん、上から下にいけばいくほど劣っており、劣悪なものになってゆく。

 この光と闇の構図を見て、イラン系の人などはすぐ「これこそスフラワルディーのイラン的(ゾロアスター教的)要素だ!」と言ったりするけれど、個人的には、これはむしろ新プラトン主義に近いのではないかと思う。(もちろんスフラワルディーのなかにイラン的要素もあるのだけれど、私はWalbridgeなどに倣い、スフラワルディーをプラトニズムの復興者と考える。)

 人間の本質はもちろん抽象的な、純粋な光である。
 そして光の特徴は自己顕在していることである。明るくて逃げも隠れもしていない。だから、自分自身に自分自身がはっきりと見えているのだ。
 スフラワルディーの存在論、認識論はすべて「顕在」⇔「忘却、隠蔽」の対立で語られてゆく。もちろん、「光」と「顕在」こそが目指されるべきものである。

 一方で人間の身体は「障壁(バルザフ:al-barzakh)」と呼ばれるものである。このバルザフは薄暮の実体の一種である。バルザフそのものは、イスラームの伝統における、この世とあの世の中間の世界、キリスト教でいう「煉獄」に近い世界のことを指す。
 光と闇のあいだの、中間的な薄暮のものを、この世とあの世の中間のバルザフと名付ける辺り、スフラワルディーの独特の言語センスが光っているなぁ。(とはいえ、スフラワルディーのこのセンス、いつも成功しているわけじゃない。敢えてペリパトス派と違う用語を使おうとしてわけわかんなくなってることもしばしば…)

 私たち人間の本質は純粋な光であり、光は自己認識する。
 スフラワルディーはここから、独特の自己認識論を展開してゆくのだけれど、Jari Kaukuaによれば、彼の自己認識論は、じつのところイブン・シーナーの空中人間説に淵源するとのこと。
 とはいえ、スフラワルディーの独特の自己認識論は「現前による知識」などとも言われ、ペリパトス派的な「概念化」と「承認」というふたつの認識論を超える、第三の認識として注目されていたりもする。

 光は認識し、闇は認識しない。知識は光にあり、闇は無知である。
 そして私たちの本質は光であるとはいえ、それが宿っている身体は、光とも闇ともつかない、薄暮のものなのだ。
 人間の身体が光と闇の戦いの場であるという考えは、ゾロアスター教よりもマニ教を連想させるが、スフラワルディーの折衷的で混淆的な世界観は、むしろマニ教に近いかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿