提唱者:プラトン
テキスト:『ティマイオス』
プラトンの『ティマイオス』はアラビア語世界にかなり詳細な形で伝わった数少ない対話篇のひとつである。(とはいえ、その形式は対話篇から論考形式に変えられているけれど。)
そこで言われるところによると、世界はつるつるでまったく瑕のない完全な球体をしていて、そこには手も足も、目も鼻も口もないという。
プラトンによると世界と天は同じ意味らしいので、世界とはつまり宇宙のことである。
つまり、宇宙の形状は完全な球体だという。
これは、現代の宇宙物理学でも完全に否定し切ることができないのではないか。
現代の宇宙物理学の進歩は目覚ましいが、それが観測できるのは、あくまでも光が届く範囲、つまり地球にいまだ光が届いていない場所については「どうなっているか分からない」としか言えないのだ。
自分も子どものころ、宇宙は球体をしている、というか、宇宙は水晶玉のようなものの中に入っていて、その外側にはまったくべつの世界があり、べつの世界の人たちがその水晶玉を見守っているのではないだろうかと考えていた。
そのため、プラトンのこの宇宙観にはとても親近感がある。
(もちろんプラトンの宇宙観の場合、この球体の外側には何もない。でも、プラトンは世界の内側から世界を描写したわけで、完全な球体の外側には、球体を蝕む炎や氷じゃなくて、球体を慈しむべつの世界があってもいいんじゃないだろうか。)
そして、同時に連想するのが、世界卵、もしくは宇宙卵という概念である。
正確に言えば、球体と楕円形の卵(いやむしろ卵形と言うべきか?)は違うかもしれないが、ここは自由連想ということで許していただきたい。
世界中には世界、または宇宙を卵のイメージで語るという流れが古代から連綿と続いてきた。
そのイメージを澁澤龍彦は『胡桃の中の世界』のなかの一篇「宇宙卵について」で猟歩している。この辺りに深く突っ込み始めるときりがないので、そこは澁澤に任せるとして、プラトンが『ティマイオス』で語ったこの無貌の球体としての世界と宇宙卵、何か関連性が見出せるような気がしている。
単なる予感に過ぎないが。
プラトンは球体に完全性を重ねあわせており、知性や宇宙といった永遠なる存在は回転運動をするという。
この「円運動は永遠である」という考えはその後も西洋哲学を深く支配し続け、結局コペルニクスだってここから抜け出せなかった。
西洋の天文学がプラトンの呪縛から抜け出すには、ケプラーの登場を待つしかなかった。
そしてもうひとつ、無貌というイメージ。
これは、『ティマイオス』のもうひとつの大きなイメージ、「場」(コーラ)とも結びつくのではないだろうか。
無貌の世界。怖くて怖くて、でも何だか魅力的なイメージである。
私はこの水晶玉のような宇宙を喰い破って、中から何か凄いものが生まれてくるんじゃないかという空想をやめることができないのだ。
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