2016年6月28日火曜日

スフラワルディーの定義批判

提唱者:スフラワルディー

テキスト:『照明叡智学』第一部第一巻

スフラワルディーによれば、ペリパトス派の定義は不充分だという。

ペリパトス派の定義は、「もっとも近い類+種差」で成り立っている。

そのもっとも有名なのが、人間の定義としての「理性的な動物」というものだと思う。

つまり、人間という種にもっとも近い類が「動物」であり、その種差が「理性的」。

でも、スフラワルディーはそれを否定する。

たしかに、種差が果たして何なのか、分かりにくい。
人間には、「ほかの動物がもたない人間だけの要素」なんて、もっとあるんじゃないの?
「文字を書く」とか「無意味に爆笑する」とか「お互いのアソコの大きさを競い合ったりする」とか。
でもペリパトス派の決まりによれば、人間にとって「笑う」というのは、種差じゃなくて特性。

じゃあ定義に用いられる「種差」はいったい何であれば問題ないのだろうか?

これはスフラワルディーじゃなくても疑問に思うだろう。
人間の定義は「理性的な動物」。
それは問題ない。
オーケー。それでいい。

じゃあ、犬の定義は?
「四足歩行で吠える動物」?
でもこれじゃあ「四足歩行」と「吠える」の二つの要素が出てきてしまっている。

はたして、「犬」をそれ以外のすべての動物から区別する「種差」は何だろうか?

これは個人的に、「人間」以外をペリパトス派のやり方で定義しようとすると生じてきた問題である。

理論は立派なのだけど、それを実地に実践しようとすると、途端に訳が分からなくなる。

一方でスフラワルディーは定義にかんして、ある事物にかんする本質的要素は無数にあるんだから、それをひとつだけ挙げることなどできないと言う。

たしかに、人間の定義が「理性的な動物」というのは一般的に膾炙しているので問題ないけれど、それ以外のものについての定義は結構あやふやだ。

だからスフラワルディーは、「集合」によって、その対象がもっている要素をいろいろ集めることこそが定義だと言う。

スフラワルディーによれば「人間は笑う二足歩行の動物である」という定義もアリなのだ。
(それが「人間は理性的な動物である」よりどれほどの精度をもっているかは分からないが。いや、そもそも「人間は理性的な動物である」といった定義は無理、というのがスフラワルディーの立場か。)

定義される対象がもつ要素を少しずつ加えていって、段々と定義の精度を上げていくというのは、まさにプラグマティズムとも通じるところがあるんじゃないだろうか。

可愛くて、気立てがよくて、優しくて、料理が上手で、笑顔が素敵で…えーと、えーと、そういった要素を加えていくことで、段々定義は精緻になってゆく。

ペリパトス派批判、かもしれないけど、独自の定義論を提示しているという点で、スフラワルディーはペリパトス派を超えている、ということも出来るかもしれない。

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