2016年6月12日日曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第二部第一巻(2)

第四章
〈物体はその存在において抽象的光を必要とする〉

(111)障壁的な薄暮のものは、形(ashkāl)などのような闇のものや、量による特性をもつ(もちろん量は障壁に附随しないのだが。そうでなければ、障壁は何らかの特定化や切断面(maqṭaʻ)や限定(ḥadd)をもち、それによって量同士が区別されることになるだろう)。よって障壁同士を互いに異なるものとしているこういった諸事物を、障壁は本質的にもたない。そうでなければ、あらゆる障壁がそれらを共有することになるだろう。障壁は量の限定を本質的にもたない。そうでなければ、すべてのものが量にかんして等しいことになるだろう。
つまり障壁がそれ(=量にかんする限定)をもつのは、他者に起因するのだ。というのも、もし形などの闇の様態が充足していたならば、それらの存在は障壁に依存しなかっただろう。また、もし障壁的な実相が本質的に必然的に充足していたならば、それは自らの存在の実現にかんして、闇の様態の特定化されたものなどを乞い願うことはなかっただろう。なぜなら、もし障壁が量や様態から抽象化されていたなら、離存的な様態には識別要素がないため、それが多化することはできなかったし、いかなる障壁の本質も特定化できなかっただろう。識別可能な様態は、それらが必要とする障壁的な「何であるか性」に附随すると言われることはできない。というのも、もしそのようであれば、[それらの諸様態は]異なった障壁において相違していないことになるが、実際には相違しているのだから。
 そして直観(al-ḥads)は、「定命の(al-mayyitah)薄暮の実体は、互いの存在が互いに由来していない」と判断する。というのも定命の障壁的な実相にかんして前後関係(awwaliyyah)はないのだから。またほかの説明によって、障壁はほかの障壁を存在させないことを知るだろう。
そして障壁の闇や光の様態のいかなるものの存在もほかの何ものかに循環的な仕方で基づいていないとき(Aが依存している対象BがAに依存していることを防ぐため)、あるものは自らを存在させるものを存在させ、するとそれを存在させるものと自らとに先行することになるが、これは不可能である。そしてそれらが自己充足していないとき、それらはみな薄暮の実体や闇や光の様態以外のもの、つまり抽象的光を乞い願う。
薄暮の実体の「実体性」は知性的であるが、「薄暮性」は無的(ʻadamiyyah)である。よってそれは在りのままに存在するのではなく、諸特性をともない個物(al-aʻyān)のうちに存在するのだ。
(112)規則〈抽象的光は感覚によって指示されない。〉知ってのとおり、指示される光はすべて、付帯的な光なのだから、もし純粋な光があったなら、それは指示されず、物体を基体としてもたず、まったく様相をもたない。
(113)規則〈自らによる光はすべて、抽象的光である。〉付帯的な光は自らによる光でない。その存在は他者によるのだから、それは他者によらねば光ではない。よって純粋で抽象的な光は自らによる光であり、自らによる光はすべて、純粋で抽象的な光である。
(1) (3)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

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