2016年6月22日水曜日

ガレノス『ティマイオス敷衍』(1)

慈悲深き慈悲遍き神の御名において

I―ガレノス(Jālīnūs)は言った。プラトンは『ティマイオス』(ṭīmāwus)と題する著作の目的を、世界とそこにいる動物の生成にかんする言説とした。彼にとって世界にかんする言説と、天にかんする言説のあいだに違いはない。彼が「天」で意味するのは、円運動する球状の物体である。
 本書の冒頭には、ソクラテス(suqrāṭ)とクリティアス(qrīṭiyās)のあいだで交わされた、政治(al-siyāsah)や、アテネ(athīniyyah)の民の古代人や、アトランティス島(jarīrah aṭlanṭīs)にいた人々にかんする物語がある。ティマイオスの話が終わったら、彼ら(アトランティスの民)について語ることをクリティアスは請け負っている。その後、プラトンは話し手をティマイオスに移したが、プラトンの諸書におけるソクラテスの語りの伝統である質問と応答の形式でではなく、語りすべてをティマイオスひとりのものにしたのだ。我々はティマイオスが本書で語った内容を要約しなかった。我々がプラトンのほかの作品でその内容を要約したようには。というのも、それらの作品での彼の語りは広範囲で長いのだから。一方本書について言えば、それは極めて簡潔で、アリストテレス(arisṭāṭālīs)の圧縮された不明瞭な語りからも、プラトンのほかの作品での長い語りからも隔たっている。この文章にいくつかの圧縮や不明瞭があると思い込んだとしても、それはきわめて少ないことが分かるし、集中してみれば、文章自体が不明瞭だからそうなのではないことが明らかになるだろう。文章そのものがある種曖昧で不明瞭な場合、理解の少ない読者にはそのようなことが生じるが。それ自体が不明瞭な文章とは、〈…のような文章である。一方、それ自体が不明瞭でない文章とは、〉その分野を知悉している者でないと理解できない文章である。以下の文章は、ティマイオスの語りの冒頭を私が記述したものである。彼は言った「永遠なる存在者(al-mawjūd)は生成(kawn)せず、絶え間ない生成者(al-kā’in)は、いかなる時間のうちでも存在しない。」この言葉は、プラトンの他の作品に習熟している者には明白で歴然な言葉である。つまり知性で理解される物体でない実体と、プラトンの習慣では実体(jawhar)でなく生成と呼ばれる感覚的実体のあいだには違いがあるということである。『政治の書』(kitāb al-siyāsah)でソクラテスが何度も、感覚される諸物をこの名で呼んでいることが分かっている(ただしその名が相応しいとしたわけではないが)。よって必然的にこの箇所で、感覚されるものはすべて「絶え間ない生成者」と呼ばれ、知性でのみ理解されるものはすべて「永遠なる存在者」と呼ばれるのである。本書でのプラトンの語りがこのような具合なので、彼のほかの作品でしたように本書を要約することはできない。なぜなら、そうしたなら私は要約された語りをさらに要約してしまうから。しかし私は本書で、先行する文章に続ける形で、彼が『ティマイオス』で語ったこれらの意味をまとめている。

(2)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

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