2016年6月18日土曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第二部第一巻(3)

第五章(概略)
〈自己認識する者は、抽象的光である〉

(114)本質(=自己)をもっておりそれを見過ごすことがないすべてのものは、薄暮のものではない 。というのもその本質がそこに顕在しているのだから。またそれは他者のうちの闇の様態でない。というのも光の様態も自体的な光ではないのだから、闇の様態については言うまでもない。よってそれは指示されない、純粋で抽象的な光なのである。

第五章(詳細)
〈上記の内容〉

(115)自体的に存立し、自己認識するものは、自己のうちにある自己のイメージ(mithāl)によって自己を知るのではない。なぜなら、もしその知識がイメージによるもので、私性(al-anā’iyyah)のイメージが自己でないならば、私性のイメージは私性との関係においてそうなのであり、このとき認識されるのは[私性そのものでなく、私性の]イメージということになる。すると、私性の認識はまさに「A=A」の認識であり、かつ私性自体の認識が私性そのもの以外の認識であることになってしまうが、これは不合理である。
 外界の認識について話は別である。なぜならイメージもその原像も、両方とも[対象として指示されうる]「それ」なのだから。
 さらに、もし自己認識がイメージによるもので、しかもそれが自らのイメージであることを知らなかったなら、それは自らを知らない。もしそれが、自らのイメージであることを知っていたなら、それはイメージなしですでに自らを知っていたのだ。自らに附随したものによって自己を知るなど、はたして想定可能だろうか。というのもそれは、自己の属性なのだから。よって自己に附随した属性はすべて、それが知識であろうなかろうが、自己に属していると判断されたなら、自己はあらゆる属性以前に、属性なしですでに知られていたのである。よって自己が、附随した属性によってすでに知られていることはないのである。
(116)あなたは、あなた自身も自己認識も忘却しない。なぜならその認識が形相や附随物によることは不可能なのだから。よってあなたが自己認識するさいに必要なのは、自己顕在しているあなた自身か、自らが忘却しないものだけである。よって必ず、自らによる自己認識は、まさにあなた自身によるし、あなたは決してあなた自身もその一部も忘却しない。あなた自身が忘却するもの(たとえば心臓、肝臓、脳のような器官や、障壁、闇や光の様態のようなものすべて)は、あなたの認識主体(al-mudrik)ではない。というのもあなたの認識主体は器官でも障壁的なものでもなく、そうでなければ、あなたが不断に連続して自己に気付いているように、あなたはそれを忘却しないことになるだろう。実体性をその「何であるか性」の完成体であるとしようが、主語や基体の否定の一種と理解しようが、あなた自身そのもののように自立的ではない。また実体性を未知の意味とし、あなたが附随物によらず連続的に自己認識するならば、あなたはこの実体性を忘却しているのだから、実体性はあなた自身の全体でも一部でもない。よって、あなたが省察したとき、「それによってあなたがあなたであるもの」で見えてくるのは自己認識主体、つまり「あなたの私性」以外にない。自己や私性を認識する者は皆共通してそうである。よって認識主体性は、どのようなものであれ、属性でも附随物でもないし、あなたの私性の一部でもない。というのもその場合、ほかの部分が未知のまま残ってしまうのだから。認識や気付きの主体を超えたものがあったなら、それは未知のものであり、あなた自身に属さない。あなた自身の自己への気付きは附随物ではないのだから。
以上の説明から、明らかに事物性も気付きの主体に附随しない。というのも気付きの主体は自らによって自己顕在しているのだから。また何らかの特性を伴って顕在の状態になるのではなく、むしろ顕在しているもの以外のなにものでもない。よってそれは自らによる光であり、よって純粋な光である。あなたの認識主体性は自己の後に出てくる何か別のものでもなく、認識する素質は自己に付帯的でもない。もしあなたが自らを自己認識する存在(anniyyah)と想定したなら、自己は認識に先行することになり、未知のものであることになるが、それは不合理である。よって我々が言ったこと以外はありえない。そしてあなたが光と共にあらんとするならば、以下の規則がある。
(117)規則、光は、自らの実相において顕在しており、本質的に他者を顕在させる。光はそれ自体で、実相に顕在が[後から]附随するあらゆるものより顕在している。付帯的な光も、それらへの附随物によって顕在するのではない。よってそれらはそれ自体で隠れているが、ただ自らの実相によるって顕在するのだ。この光は発生して、それから顕在がそれに付随するのではない。そのようなものは定義自体での光ではなく、ほかのものがそれを顕在させるのである。むしろ光は顕在してり、それが光であることにより顕在するのだ。「我々の視覚が太陽の光を顕在させるのだ」と空想して言われるようなものではなく、むしろそれが光であることにより顕在するのだ。たとえすべての人間、あらゆる感覚を持つものがいなくなったとしても、その光性は消滅しない。
(118)ほかの説明:あなたは「私の私性には顕在が附随し、それ自体では隠れている」と言えない。むしろそれは顕在や光性そのものなのである。知っての通り、事物が実相や「何であるか性」であるように、事物性は概念的(al-ʻaqliyyah)な述語や属性のひとつである。また忘却の欠如は否定的なものであり、あなたの「何であるか性」ではない。最終的に、それは顕在と光性以外ではありえない。よって、自己認識する者はすべて純粋な光であり、あらゆる純粋な光は自己顕在しており、自己認識主体である。説明終わり。
(119)判断〈事物の自己認識は、事物の自己顕在であり、ペリパトス派の教義のように質料からの抽象化ではない〉加えて言おう。もし味覚が障壁や質料から抽象化されていると想定したならば、それはまさに味覚以外のなにものでもないことになる。そして光の抽象化が光そのものであると想定されたなら、それは自己顕在、つまり認識していることになる。しかし抽象化された味覚が自己顕在していることにはならず、むしろそれは味覚そのものに過ぎない。もしペリパトス派の教義のように、事物が自らに気付くための充分条件が「ヒューレー(al-hayūlā)や障壁から抽象化されている」ことであったなら、彼らの主張するヒューレーは、自らに気付くことになってしまう。というのもヒューレーは他者の様態でなく、むしろ「何であるか性」をもち、ほかのヒューレーから抽象化されているのだから――というのもヒューレーはヒューレーをもたないのだから――ヒューレーは自己忘却しないことになる。もし「忘却」で自己からの疎外を意味するのであれば。もし「忘却の欠如」で気付きを意味するならば、離存実体における気付きは、忘却の欠如に起因しない。むしろこの仮定によれば、忘却の欠如は気付きの婉曲表現や比喩である。そしてペリパトス派にとって、事物の認識とは、事物が質料から抽象化されており自己忘却していないことである。また彼らが言うように、質料自体の特性は、様態によってのみ生じる。様態が認識することを質料が妨げているならば、質料が認識することを妨げるものは何だろうか?そして彼らが認めるように、ヒューレーは彼らが「形相」と呼ぶ様態によってしか特定化しない。形相が我々のうちに生じたら、我々はそれらを認識する。しかしヒューレーそれ自体は彼らが主張するように、無限定の何か、または量やあらゆる様態とは無関係の何らかの実体以外のなにものでもない。よって定義自体において、ヒューレーより単純なものはない。とりわけ彼らが認めるように、ヒューレーの実体性は、そこから「基に置かれたもの(基体=主語)」を否定することなのだから。ではなぜヒューレーは基体や部分からの抽象化によって自己認識しないのか?またなぜそこにある形相を認識しないのか?しかし我々は、実体性と事物性などといったものは、概念的表現であることを明らかにした。
(120)また彼らが言うには、万物の創出者は存在そのものでしかあり得ない。そして彼らの学説に基づいてヒューレーを研究したら、それらの発生はまさに存在に由来する。というのも前述のように、ヒューレーが特定化するのはただ実体的な様態によるのだから。よって、端的に「何であるか性」そのものであるようなものはない。むしろ、特性が確定されたとき、それは「何であるか性」や「存在者」と言われるのである。最終的に、ヒューレーは何らかの「何であるか性」や存在でしかあり得ない。よって、ヒューレーが形相を乞い願うということそれ自体が、何か存在者であることに起因するならば、必然的存在もそのようになろう――その御方はそれよりも高くにあられるのに!そして必然的存在がこの純一性のようなものによって自己や事物を思惟するならば、ヒューレーもそうしなければならない。なぜなら、ヒューレーも存在者以外のなにものでもないのだから。以上の発言の誤りは明らかである。
よって、自己認識するものは自らによる光であり、逆も真であることが確定した。もし付帯的光が抽象的であると仮定したら、それは本質的に自己顕在しているだろう。そして「本質的に自己顕現していること」という実相をもつものは、「抽象的だと仮定された光」の実相をもつ。なぜなら「X=Y」と「Y=X」は同じなのだから。

(2)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。


あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

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