2014年4月17日木曜日

イブン・シーナー『救済の書』「論理学」(3)言表の種類

イブン・シーナーIbn Sīnā980–1037)『救済の書』Kitāb al-Najāh「論理学」第3章から第6章まで。

3. 単独言表(al-alfāẓ al-mufradah)について

観想的会話は複合言表(alfāẓ mu’allafah)によって生じ、知的思考は複合知的言説(aqwāl)によって生じ、そして単独なものは複合したものに先行するのだから、我々はまず単独言表について話さなければならない。
さて我々は言う。単独言表(al-lafẓ al-mufrad)は意味(al-maʻnā)を指示するものであるが、その[単独言表の]いかなる部分も、本質的に、その意味のいかなる部分を指示することもない。
たとえば我々の言説「人間(al-insān)」、これによってある意味が確かに指示されている。さてその二つの部分――それらを「in」と「sān」にしてみよう――はいかなる意味も指示されていないか、「al-insān」の意味の二つの部分ではない、二つの部分を指示しているかである。
もし「in」が、たとえば魂を指示し、「sān」が肉体を指示するということが偶然あったとしても、我々の言説「insān」全体における「in」と「sān」によって、両者による指示(=「in」が魂で「sān」が肉体という指示)は意図されていない。よって両者が「insān」の二つの部分として受け取られたとき、それらは何も指示していないようなものである。

4. 複合言表(al-lafẓ al-murakkab)について

複合的(murakkab)、もしくは構築された(muallaf)言説は、何らかの意味を指示しており、それらからその聴覚情報(masmūʻ)が合成され、それらの意味から全体の意味が合成される諸部分を持っている。たとえば我々の言説「人間が歩いている(al-insān yamshī)」や「石の投擲手(rāmī al-ḥijārah)」のように。

5. 普遍的(al-kullī)単独言表について

普遍的単独言表は、ひとつの一致する意味によって、多数のものを指示する。[多数のものとは、]たとえば人間のように、存在において[実際に]多数であるか、たとえば太陽のように、想像(tawahhum)の可能性において多数である[が実際にはひとつである]かである。要するに普遍的なものは、多数のものがその意味を共有することがその概念(nafs mafhūm)によって妨げられない言表である。もし何ものかがそれを妨げるなら、それはその概念以外のものである。

6. 個別的(al-juz’ī)単独言表について

個別的な単独言表は、そのひとつの意味が、存在においても想像によっても、ひとつ以上のものに当てはめることが出来ず、むしろ前述のようにその概念がそれを妨げるものである。たとえば我々の言説「ザイド(Zayd)」のように。
というのも「ザイド」の意味は、ひとつの意味として受け取られたならば、それは唯一なザイドの本質(dhāt)なのだから。それは、存在においても想像においても、唯一なザイドの本質以外のなにものかであることは不可能である。つまり、指示表示(al-ishārah)がこれを妨げているのである。よってもしあなたが「この太陽(hādhihi al-shams)」とか「この人間(hādhā al-insān)」と言ったなら、それ以外のものがそれを分有することは妨げられている。
Dāneshpazhūh版、pp. 9–11.
Ahmed訳、5–6.

 ここでイブン・シーナーは単独言表、複合言表、そして普遍的単独言表と個別的単独言表を提示している。ここで彼が言うlafẓとは、アリストテレスἈριστοτέληςBC384–322)が『命題論』Περὶ Ἑρμημείας4章で言うλόγοςのことだろうか。

言表(λόγος)とは意味表示する音声(φωνὴ σημαντική)のことであり、その諸部分のうちのあるものは、全体から切り離された状態でも意味表示する――とはいえ肯定命題(κατάφασις)としてでなく、発話(φάσις)としてであるが。私が言っているのは、例えば「人(ἄνθρωπος)」は、それがあるのかあらぬのかを言わずに何かを意味表示する。(しかし何かが付加されたら、肯定命題か否定命題(ἀπόφασις)になるだろう。)ただし「人」の音節(συλλαβή)が、それひとつで何かを意味表示はしない。というのも鼠(μῦς)におけるυςすら[豚(ὗς)を]意味表示せず、この場合は単なる音声なのだから。しかし既に述べられたように、二つの語[の合成語]において、[その部分は]意味表示するが、それ自体においてではないのである。
アリストテレス『アリストテレス全集I カテゴリー論 命題論』早瀬篤訳, 東京: 岩波書店, 2013, p. 118.
Aristoteles, Categoriae et Liber de Interpretatione, ed. L. Minio-Paluello, Oxford: Oxford University Press, 1949, 16b26–33.

『命題論』第2章で言われる名詞(ὅνομα)も含まれているだろうが、イブン・シーナーにおいてlafẓは「人間が歩く」という、主語=述語構造を持つ文章も含むので、名詞よりも広い概念であろう。単純言表はアリストテレスの例で言われる「人」の音節の例をアラビア語訳して説明したものである。「にんげん」の「にん」と「げん」はそれぞれ独自の意味を持っているわけでないし、もし持っていたとしても「にん」の意味と「げん」の意味を合わせたものが「にんげん」の意味になるわけではない。一方で複合言表はその部分がそれぞれ独自で意味を持つ。アリストテレスは『命題論』第2章で「海賊艇」ἐπακτροκέκηςの例を挙げる。しかしここで気を付けたいのは、イブン・シーナーにとって複合言表は、複合名詞ではないということだ。「人間が歩いている」など、「文章」に分類できるようなものも、複合言表には含まれる。
 また、普遍的単独言表と個別的単独言表であるが、これはほぼ「普通名詞」と「固有名詞」に対応する。普通名詞は多数のものに対応し、たとえば太陽のように、実際には対応物がひとつしか存在しなくても、「太陽」という語義そのもののうちに「多数に当てはまる」ことを拒否する要素は含まれていない。もし実際に太陽がひとつしか存在していないとすれば、それは太陽の語義そのものが原因でなく、それ以外の外的な要素が原因である。実際、現代人である我々はSFなどの文脈において、「太陽系」以外の星系にある「太陽」のことを語ったりする。

 逆に固有名詞は単一のものを意味する言葉として使用されている以上、単一のものしか指し示さない。我々が「太郎」という言葉を「「太郎」という名前を共有する多数の者に当てはめられ得る名前の音」として使用するとき、それは普通名詞的に、つまり普遍的単独言表的に使用される。しかしそれが、ある特定の太郎を指すものとして使用されるとき、その語義には「この太郎」の本質が含まれ、それ以外の太郎に適用することは不可能である。アラビア語の例において、こういった固有名はザイドとアムルである。太郎と花子のようなものである。また必ずしも名詞そのものが固有名詞でなくても、「この太陽」や「この人間」と言った場合も、同様なものと見做される。

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