2014年4月16日水曜日

イブン・シーナー『救済の書』「論理学」(1)taṣawwurとtaṣdīq

イブン・シーナーIbn Sīnā9801037)による哲学全書のひとつ、『救済の書』Kitāb al-Najāhは、論理学、自然学、数学、形而上学という、割かし標準的な構成になっている。
『救済の書』はイブン・シーナーの中でも割と後期の作品であり、時期的には彼の円熟期の作品になるのだが、実際には古い作品からの寄せ集めであり、それほど新しい記述は含まれていない。Gutasによれば、彼は実質新しい文章をひとつも書くことなく『救済の書』を仕上げたという。いわばコピペによる再編集版、またはベストアルバムみたいなものだ。
イブン・シーナーに限らず、当時のイスラーム地域の哲学者たちはだいたいが実務家であり、思索に専念できる環境で活動できたわけではなかった。イブン・シーナーの場合、イスファハーンのカークーヤ朝を支配するアラーウッダウラの宮廷に行って以降はかなり安定した身分だったと思われるが、それでも昼間は宮廷に出仕し、ときには遠征に同行したりと、気の休まる暇はそれほどなかった。この点、修道院や教会を中心に展開された西洋ラテン世界のスコラ哲学とはずいぶん趣を異にする。
 それで、彼の『救済の書』、論理学部分だが、2011年にAsad Q. Ahmedによる英訳(Avicenna’s Deliverance: Logic, trans. Asad. Q. Ahmed, Oxford: Oxford University Press, 2011)が出版されたため、アラビア語が読めない人にも手を出しやしやすくなった。

 『救済の書』「論理学」はtaawwurtadīqについての記述で始まっている。

taawwurtadīq、両者の手法について

あらゆる知恵(maʻrifa)と知識(ʻilm) は、taawwurであるか、tadīqである。
taawwurが第一の知識であり 、定義(ḥadd)やそれに類したものによって獲得される。たとえば、人間の本質(māhiyya)にかんする、我々のtaawwurのように。
tadīqは、推論(qiyās)やそれに類したものによってのみ獲得される。たとえば、「普遍はひとつの始原を持つ(li-l-kulli mabda’unidun)」ということに関する我々のtadīqのように。
定義と推論という二つの道具によって我々は、[かつては]未知であったが熟慮(rawiyah)によって既知になる諸々の知識(maʻlūmāt)を獲得する。両者それぞれには、(1)真実のもの(ḥaqīqī)、(2)真実でないが、それ自体において何か有益なもの、(3)真実のものに類似している偽のものがある。多くの場合、人間の本性(fiṭrah insāniyyah)はこれらの種類[の定義や推論]を識別するのに十分[な能力を持って]いない。もしそうでなければ、賢人たちの[意見の]あいだにいかなる相違もないだろうし、それに関する意見のうちに、いかなる矛盾もなかっただろう。

推論と定義は両方とも、確定された構築様式によって、思惟された諸概念(maʻānin maʻqūlah)から作られ、構成されている。両者とも、そこから[定義や推論が]構築される質料(mādda)と、それによってその構築が完成する形相(ṣūrah)を持っている。
また、[偶然]生じた任意の質料から家や椅子が作り上げられるのではなく、そして[偶然]生じた任意の形相[と組み合わされること]によって家の質料から家が、椅子の質料から椅子が完成するのではなく、むしろあらゆるものは、それに特有の質料と、本質的にそれに特有の形相を持っているように、熟慮によって知られる知識はすべて、それに特有の質料と、それに特有の形相を持っており、両者によって真理に到達するのである。また、家の建築に関する消滅(al-fasād)が、たとえ形相が正しくても質料のせいで生じ得るし、たとえ質料がしっかりしていても、形相のせいで生じ得るし、またはそれら両方のせいで生じ得る。それと同じように、熟慮に関する消滅は、たとえ形相が正しくても質料のせいで生じ得るし、たとえ質料がしっかりしていても、形相のせいで生じ得るし、またはそれら両方のせいで生じ得る。
Dāneshpazhūhp. 8
Ahmed訳、p. 3–4

イブン・シーナーによれば、taawwurとは事物の定義、tadīqは物事の正誤判断である。
つまり、人間という事物に対する「理性的・動物」という定義付けがtaawwurで、「全体は部分より大きい」や「3角形の内角の和は180度である」という判断がtadīqである。
taawwurには「はい」と「いいえ」の判断が生じ得ない。「理性的・動物」とだけ言われたからと言って、それは只の定義に過ぎず、推論を構成していないからだ。しかしそれが「人間は理性的・動物である」という命題にまで膨らめば、そこに正誤判断が入るため、taṣdīqになる。
 但しイブン・シーナーによれば、こういった定義や推論には正しいものだけでなく、間違っているけれど有益なものや、一見正しいけれど間違っているものがあるという。そして何も訓練を受けていない野良の状態の人間の本性はこれらを区別することが出来ない。だから、様々な哲学者たちは真理にかんして今まで好き勝手様々な意見を言ってきたというわけだ。これは宗教家が哲学者に対して言う批判への反論でもあるだろう。曰く、「この世に唯一の真理があり、哲学と言うものはこの唯一の真理を探究するものであるならば、なぜ哲学者同士の意見が斯くも食い違っているのか?」と。イブン・シーナーはこれにこう反論する「真理は確かに存在する。しかし人間の知性にも段階があり、それほど知性的に彫琢されていない数多くの人間は、誤った判断と真理を区別できないため、結果として世の中には真理に見せ掛けた誤りの理論が数多く氾濫することになってしまったのだ。」

 後半部分はつまり、家という事物が生じるためには、家に相応しい質料と、家に相応しい形相が組み合わされる必要があるのと同じく、定義や推論も同様のものから組み合わされていなければならないという意味であろう。人間という種は「理性的」という種差と「動物」という類から成る。これはそれぞれ人間の定義を構成する要素であり、そこに任意の種差と類、たとえば「空を飛ぶ・穀物」なんかが組み合わさっても意味をなさない。これについては、どちらかが片方が正しくても、もう片方が間違っていれば成立しない。もちろん両方が間違っていてもダメである。

 イブン・シーナーの論理学の最小構成要素がtaṣawwurtaṣdīqであり、これら二つを組み合わせることによってあらゆる知識が成り立ってゆく。その点において、これら二つを理解するのはイブン・シーナー論理学の最も初歩として重要である。
ちなみに、Ahmedtaṣawwurconceptualization, taṣdīqassentingと訳している。taṣawwurṣ-w-rV形動名詞で「形相、概念、映像にすること」、taṣdīqṣ-d-qII形動名詞で「信じること」であり、それぞれ「概念化」と「承認」であろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿